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神の栄光を見る

(1997年9月21日礼拝説教)

牧師 我喜屋 光雄

「神の力は偉大であるが、それを制限しているものがある。その一つは教会である」と言われた方が あります。教会はいつのまにか保守的になり、宗教的になるあまり、残念なことですが、不信仰を作っ ていることがあります。これをクリスチャン個人に当てはめると、信じているけれども、信じ切れな い・・・そのような時の行動に現れてきます。これはサタンの最後の砦として、クリスチャンを責めるチ ャンネルになっています。その砦を私たちはよく知っていますが、知っていながら、どうすることもで きないという現実の問題にぶつかるのです。こんな時、どうしたらいいのでしょう? そんな時は、決して強がりを言わずに、不信仰をそのまま告白したらいいのです。あの、てんかんの 息子をもった父親のように「主よ、信じます。信仰のない私を助けてください。」と祈ればいいのです。 あの祈りには、本当に励まされますね。誰にでもできる祈りだからです。「主よ、信じます! 疑わな い(ようにして)、がんばって信じます・・・」これはちょっと無理をしている祈りです。不信仰(のよ うに見える)行動をとってはいけないと思うあまりに「どうか私の不信仰がサタンの砦となることがな いように、神の力を制限することにならないように、あなたの信仰を与えてください。私は信じること ができませんが、あなたの真実が私のうちにみなぎってください。」と言うことができない人が多いで すね。でも、本当は単純に祈ればいいのです。 

 みことばを読みましょう。エペソ人への手紙1章1節から5節までです。 「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから・・・神はキリストにおいて、天にあるすべて の霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。・・・私たちをイエス・キリストによってご自分 の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」 このみことばから、「神の栄光を見る」という今朝の説教のタイトルが与えられたのですが、神の栄 光とは、神様の臨在のことです。モーセが幕屋を完成したとき、神の栄光が幕屋に満ちたと言われてい ますが、それは明らかに神の臨在のことをいっています。新約聖書にも栄光という言葉が多く使われて いますが、その多くの場合は、神様の偉大さを表現しています。
 「神の栄光を見る」とイエス様も言われました。ヨハネの福音書の11章です。それは、 マリヤとマ ルタに対して語られた言葉です。彼女の兄弟であったラザロは、病のために急死しました。イエス様が 知らせを受けて到着した時、マリヤは、「あなたがもっと早くおいでになったら、兄弟ラザロは、死な なかったでしょう。」と言いました。イエス様はそれを聞いて涙を流され、「あなたたちの兄弟ラザロ は、よみがえる。」と言われました。すると彼女はただちに応えました。「はい、終わりの日に彼はよ みがえると信じます。」これは素直な気持ちを表しています。決して非難されるような応えではありま せん。彼女は「はい、彼は死にました。それについては、いたしかたの無いことだと思っています。い つかは誰でもそのような時を通る必要がありますし・・・でもやがて、主の再臨の時か来れば、必ずよみ がえりますから・・・」と言ったわけです。それで、イエス様はラザロの葬られている墓の前に行き、「そ の墓の石をとりのけなさい。」と言われました。マリヤは「主よ、死んでから4日もたっています。も う腐敗しはじめています。」と言いましたが、イエス様は「もし、信じるなら神の栄光を見ると言った ではないか。」と言われました。ここに「神の栄光」という言葉が使われています。イエス様は続けて、 「ラザロよ、出て来なさい。」と言われると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て 来たのです。神がある目的をもって選ばれた時に、あるいは選ばれた人のために、このようなことがお こります。信じるなら神の栄光をみると言われた、このときの意味は、死人をも生き返えらせることの できる、神の力を目の当たりにみるということであり、神の力の偉大さを意味していました。
 クリスチャンには、今お話したと同じような神の力が二度働きます。一度目は私たちが新しく生まれ る時です。新しく生まれるための力は、神がキリストを死人のうちから復活させたと同じものだと聖書 は言っています。それを経験する私たちには、それほど大きなことだという意識はないのですが、実は 大変なことなのです。ただ、あまり大きなショックがないので、信じているのか、信じてないのか・・・ 生まれ変わったのか、まだ生まれ変わっていないのか・・・はっきりしない人もいるようです。私たちは、 神の力によって新しく生まれるという経験をするのですが、それは目覚めのようだからかもしれません。 目覚めはとても自然です。あまりにも自然なので、それまでは暗闇だったのに、目が覚めたら明るくな っていたことに対して、あまり感動しないと思います。本当は、まるで世界が違うところに移るのです から、生まれ変わったという経験は大きな奇跡の体験なのです。私たちは、そのような神様の力を経験 しているわけなのです。ですから、クリスチャンはすばらしいのです。死から命に移ったという奇跡を 経験していることを確認しましょう。あなたが経験している神様の力は、実はラザロをよみがえらされ たと同じものなのです。神の国をみると、神様が見えます。そこから自然な祈りが生まれるのです。  ある人は、イエス様を信じて、洗礼をうけましたが、どうしても奇跡のような神様の力は経験できて いないと言われるかもしれません。そのような人にとって、クリスチャン生活はとてもつらいものだと 感じるでしょう。なぜなら、本当は信じられないのに、信じているようなフリをしなければなりません し、クリスチャンらしく振舞う必要がある・・・つまり「普通の人」という帽子と、「クリスチャン」と いう二つの帽子をいつも用意しておき、場所に応じて帽子を選ぶ必要がある・・・と思うかもしれません。 もし、本当にそのように思っているのでしたら、厳しいようですがその人はまだ新しく生まれていない と言わなければなりません。こんなとき、どうしたらいいのでしょう? もう一度やり直すのでしょう か? あるいは教会には出入り禁止・・・ですか? これにも、先ほどと同じことを適用しましょう。そ うなのです、問題の解決はとても簡単なのです。正直に、単純に祈りましょう。「神様、私は、信じた つもりで洗礼を受けたのですが、本当はあなたがわかりません・・・。今朝のメッセージで、この世の人 とクリスチャンの二人を演じていたことに気づきました・・・」このような、正直な祈りが神様に聞かれ ないことがあるでしょうか? 肩肘をはって、祈る必要は無いのです。クリスチャンならこうあるべ き・・・とか、こうありたいという理想ではなくて、正直に祈ることです。「イエス様、どうぞ私を生ま れ変わらせてください。あなたの力によって生まれ変わり、そして、本当に心からあなたを信じている ということがわかるようにしてください。あなたを愛しているということが、自分でわかるようにして ほしいのです。」このように祈ればいいのです。クリスチャンは生きているのですから、ありのままで いいのです。神様が私たちをクリスチャンにしてくださったのであって、自分でクリスチャンになった のではありません。
 神様の圧倒的な力が働く二度目の時は、私たちの肉体が救われる時です。実は、私たちの救いは魂が 生まれ変わるというだけでなく、それは肉体にも及ぶことで、これが究極の救いだと言われています。 このことは、ピリピ人の手紙3章の終わりに詳しく書かれています。いやしい人間の体は栄光の体に変 えてくださるというのです。聖書は、終わりのラッパが鳴り響くとき、つまりキリストが再臨されるそ の瞬間に、聖霊がすべてのキリストにある人々に働いて、病や、老化や、死に支配されることのない、 栄光の体に瞬間的に変えられると言っています。そこに望みをおいて人生を送るべきなのです。もとも と永遠に生きるように、神様はそのように私たちを造られました。ですから、それを実現するために、 死に定めた原因である罪を除くためにキリストが来られたのです。キリストを信じることによって、罪 が赦されて神の子となった結果は、魂が新しく生まれるというだけではなく、私たちの肉体が栄光の体 に変えられること、これが約束です。その時に神様は、あのラザロをよみがえらせたと同じように私た ちのうちに働いてくださるのです。
 イエス様の3人の弟子たち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネはある山に登って、彼らの目の前でイエス様が 神の子としての超自然的な姿に変えられる、その姿を見ました。ペテロはその経験について、ペテロ第 二の手紙の中で語っていますが、神の声も聞いたと言っています。「神の栄光」は現実なのです。しか し、これよりもっとまさった栄光のことを知らなければなりません。それは、みことばが与えられ、み ことばを通して経験する神の栄光です。また、この栄光は十字架によって知るということです。ヘブル 人の手紙を見ますと、私たちは、神に近い存在として造られました。しかし、現実の人間の姿を見てい ると、その栄光を見ているようには思われません。多くの点で敗北しています。アダムはエデンの園か ら追い出されて、いばらとあざみの生える土地を耕して、そこから糧をとらなければならなりませんで した。苦労して家族を養わなければなりませんでした。一方エバは、生みの苦しみをするようになりま した。これらはすべて罪の結果でした。その結果今でも男性は額に汗して働きます。その様子は昔から 変わっていないのは、罪の結果として働いている法則の中に生きているからなのです。

 私たちは、神の栄光の証しとして造られたことを聞いていますが、その事実を見ないと、聖書は言っ ています。ただし、一点を通してのみこれを見ることができます。ヘブル書2章には・・・私はこの表現が とても好きです・・・「見ない」けれど「見る」と書かれています。そうなのです、あるひとつのことを 通して「見る」ことができます。その一点とは、イエス・キリストの十字架を通して、私たちが勝利者 に回復されるということで、これを通して自分が栄光を受けたものであるということがわかるのです。 そのことが聖書に書かれてあります。確かに聖書には書いてあるけれども、そんな感じは全くしないと 言われるかもしれません。実は、これが不信仰なのです。信仰は感情からやって来ません。信仰は理性 的なものです。つまり。神のことばをそのまま受け取って、そのように生活すること・・・これが信仰で す。感情はその後に従ってきます。でも、多くの人は、信仰を自分の信条や感情などで納得しようとし ます。人間的に見れば、たとえ敗北者であっても、みことばの基準で、信仰の目をもって見れば「私は 勝利者です。ですから栄光を受けています」、と言えるのですが、それが出来ますか? 「私は、天に あるがゆえにもろもろの祝福を受けています・・・」と言えるでしょうか? 強がりでなく、勢いでもな く、感情でもなく・・・自然のスタイルでこれを言えるでしょうか? それが今朝の神様の、あなたに対 する語りかけです。この十字架の真理とその内容について、あなたがたの目が開かれるように祈ります。 パウロもそのように祈っています。エペソ書の1章17節以下を見てみましょう。この栄光は教会の中に 見ることができることがわかります。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御 霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようにな って、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に 富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように 偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのう ちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせてすべて の支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、 すべての名の上に高く置かれました。」 (エペソ1:17〜22)

 また、ヨハネによる福音書の17章の後半を読んでみますと、 「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるため です。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わ されたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしにくださった栄光を、彼らに 与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにお り、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたが わたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知 るためです。父よ。お願いします。あなたがわたしにくださったものをわたしのいる所にわたしといっ しょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしにくださっ たわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」ヨハネ17:21〜24) とあります。すなわち、父なる神様とイエス様、あるいは聖霊様が一つであることを通して、その栄光 が私たちに与えられたことがわかります。それによって一つになりました。三位一体の神が永遠に一つ であるように、教会は一つであるという神様の栄光が与えられているのです。

「教会は、キリストの体であって、すべてに満ち満ちておられる方がみちている所である。」(エペ ソ1:23)という言葉は、誰もが知っているみことばでしょうが、キリストの体は単なる象徴ではあり ません。キリストと共に一つであるという事実が、教会の栄光なのです。これはエペソ人の手紙全体を 通して語られている重要なテーマです。

最後に、もうひとつのことをお話したいと思います。それは、この栄光を聖霊の中に見ることができ るということです。ペンテコステの日に、聖霊様は歴史的に、天からこの地上にその住まいを移されま した。キリストが神の右におすわりになった結果そのようになったのです。ヨハネ17章を見ますと、 「渇くものは来なさい。私を信じるものは聖書が言っているようにその腹から生ける水が川となって、 流れ出ます。」とあります。これは聖霊のバプテスマの経験のことで、キリストが栄光を受けられた証 しであると言われています。御霊はこのような神ご自身を、また特にキリストご自身を私たちに啓示し てくださる「助け主」なのです。この助け主は神様の栄光を現すとヨハネ16章に語っておられます。 キリストは言われました。すなわち、教会に対しても個人に対しても同じわざをしますと・・・。 福音書 を見ますと、イエス様が、多くの人を癒され。悪霊を追い出されたことが書かれてありますが、それと 同じわざを、それよりももっと大きなわざを、あなたができるとも書かれてあります。奇跡は教会を通 して、それを信じるものに伴って現実のものとなります。その恵みが人間的には解決が不可能にみえる ような事にも働きますように。それが特に選ばれた、神様の器を通して強く働かれます。確かにすべて の人が同じようになるわけではありません。“キリストと同じわざをする”これが今の教会に欠けてい るように思います。だれかを通してでなく・・・それが現実になるように祈ります
 皆さん、最大の栄光は、神の愛です。エペソ3章の16節にパウロは祈っています。 「どうか父が、 その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますよ うに。」これは、1章の17節と同じ祈りです。この神の愛はどのような試練も、どのような死も乗り 越えることのできる基です、また、どのような環境にあっても、私たちを生かし、力づけ、励ますとこ ろの偉大な力です。この栄光がどれほど大きなことかを理解できるように祈っていくこと、それが私た ちのクリスチャン人生の課題であると思います。


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