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<亡くなった母と同じ年になって>  上木珠美

<受けた教育の全てがキリスト教に 基づくものだった…しかし>
私が初めてイエス様のお話を聞いたのはカトリックの幼稚園に通っている時でした。その後、同じ系 列の小学校、中学、高校と進み、卒業後もプロテスタント系の大学に進学しました。私の受けた19年 間の教育の全てがキリスト教に基づくものでした。神の御言葉をいつも身近に聞きながら、「イエス様 を信じます。」と一言いうのにずいぶん長くかかってしまいました。

<母の病気…看病>
大学4年の夏、最愛の母が胃がんの末期であるという宣告を受けました。私は一人っ子のせいか、す ごく母親っ子で、何をするにも母と一緒、母も私を生きがいのようにしていた人でした。ですから、 医師に母の命の期限を聞かされてから実際その日が来るまで、私にとってまさしく死にもの狂いの日々 でした。なんとしても母を失うまいと自分の生活のすべてをかけて戦いました。そして、母には本当の 病名も残された日数も告げず、ただただ、必ず良くなるから頑張れ、頑張れと励まし続けました。そん な私を見て、母はいつも「ありがとう、貴女がいてくれて本当に良かった。」と繰り返しましたが、心 の中では私のことが不憫で仕方がない、何とか一日も早くこの看病の日々から開放してやりたいと思っ ていたに違いありません。

<母の死…安堵感>
そんな一年半に渡る親子での戦いの末、母は天に召されていきました。その時の私は、精神的にも肉 体的にも疲れ果てていたと同時に、今まで恐れ逃げ惑っていた「母の死」という恐怖が現実になってし まった以上、もう何も恐れるものはないという、人間がどん底で味わう安堵感のようなものもあり、初 めて病気を宣告されたときよりは、意外に落ち着いて母の死を受け止めることが出来ました。それと同 時に周りの人たちから、あなたは誰にも出来ないほど献身的な看病をした、お母さんもきっと喜んでい る、これは運命なのだからと、心からの慰めと労いの言葉をかけられ、私もそれなりに納得するように なりました。母の病気を早期に発見して上げられなかった悔いはあるけれど、とにかくできる限りのこ とをしたというある種の満足感さえ持ったのかもしれません。

<母の年齢に近づく…心が騒ぐ>
その後、結婚し三人の子供に恵まれ幸せな暮らしをしながら、神様のこと、信仰のこと、忘れたわけ ではないのですが、そのうち、きっとそのうちにお導きがあるだろうと呑気にまた慌ただしく日々の暮 らしに追われて十年、二十年と過ぎてまいりました。ところが、私自身が見送ったときの母の年齢に近 づき、娘たちがその時の私の年齢に近づくにつれ、なぜか心が騒ぐようになりました。あの時自分なり に精一杯のことをやったと納得して、母の死を受け止めていたはずなのに今になって何か心に引っかか るものがあるのです。

<祈ることを忘れていた>
あの時の母は、病床で肉体的な苦痛と同じくらい心の重荷に押しつぶされそうになっていたに違いあ りません。ところが、私は死の恐怖と戦っている母の心を思いやる余裕もありませんでした。私の心に あったのは母への愛より、母を失って自分ひとりが取り残されることへの恐怖だけだったのです。 母がなくなって25年経って今、思えることは、当時の私がたった一つ忘れていたこと、それは祈る ことだったのです。確かにそのときの私の心の支えは、他でもない、聖書の中にある 「神はその人の負えない重荷はお与えにならない」 という御言葉でした。しかし、その御言葉を頭だけで理解し、がむしゃらに頑張 ることはしたけれど、 心から神様におすがりして祈ることをしなかったのが悔やまれてなり ません。私は母の肉体を私の手元から奪われまいとそればかりにとらわれていました。もしあの時、私 がイエス様を信じてすべてお任せし、母と一緒に祈ることが出来たら、母も人生の終わりのひと時をも っと心安らかに過ごし、神のもとに旅立つことが出来たでしょう。母自身もみ救いを求めていたような 気がしてなりません。今となっては、母に心をはかり知ることは出来ませんが、私自身このまま信仰を 持たない生き方を続けていると、母を見送ったときと同じ失敗を再び繰り返してしまうという焦りを感 じるようになりました。

<心の平安>
そんな折、ひとりの友人にお誘いいただき教会の婦人集会に出かけました。聖書からのメッセージを 聞きながら、自分が神様から離れた生き方をしていることがとても悲しく思えて涙が止まりませんでし た。その後、婦人集会や教会の礼拝にも導かれるようになり、教会に来ると不思議と心の平安が得られ、 イエス様を信じたいという素直な気持ちになれました。ここで出会う皆さんが暖かいのは、きっとお互 いのために祈り会える人たちだからだという気がしました。私もそう出来ればどんなにいいだろうと思 いました。そして、周り婦人方の心からの祈りに支えられて、洗礼を受ける決心をしました。私の罪の ために、イエス様が自ら十字架にかかって下さった事を信じ感謝します。そして、今、罪人である私を 教会にお導き下さったことも心から感謝しています。


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