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<今、この神様のことだけは手離してはいけない!> 大坪友美
<キリスト教との出会い>
私は29歳の時に、堺福音教会で洗礼を受けました。思い出してみると、中学生の時に初めてギデオン協会の無料配布の聖書に触れ、高校の時には仲良くなったクラスメートが、牧師先生の娘さんであったり、文通をしていたノルウェー人の友人も神学校に通うクリスチャンであったりと、キリスト教と縁のある生活をしていました。ですが私は、まだイエス・キリストというお方を知りませんでした。
後に進学した短大では、「この先生とジックリ話をしてみ
たい」と私が思った先生が、バリバリのクリスチャンで、福
音伝道のためにアメリカでのキャリアを捨てて日本に来た女
性でした。彼女と出会い、英語が何より勉強したかった私は、
英語のBible Studyをして頂くようになり、時々彼女が通っていた西宮の教会に連れていってもらうようになりました。
その時の私は、とにかく「英語を話したい」としか思っていませんでした。漠然と、「イエス・キリストって、すごい人だな....でも、嵐を止めたり、水の上歩いたり....は理解出来ない」と考えていました。でも彼女は、恋愛の問題や仕事の問題、様々な局面で悩みの中にあった私が「迷える子羊」に思えたのか、ずっと一つ聖書の言葉を言い続けました。それは、
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、日々自分の十字架を背負い、
そしてわたしについて来なさい」 (ルカの福音書
9章23節)
という言葉でした。
当時の私にはさっぱり理解できず、ただこの言葉の迫力に押されていました。いきなりすごい言葉を言うなあ・・と頭の中は???マークだらけでした。先生に対しても、「いつかクリスチャンになるから、もう少し待って。まだ、やり残したことが沢山ある!」と思っていました。
<失恋から仕事に没頭>
私は気が多くて、好奇心旺盛で、生き甲斐を感じる仕事に出会うことが人生の目的のように考えていました。何にも縛られず、自由に生きたい!という思いは人一倍強かったかもしれません。そんな23歳の時に、生まれて初めて、結婚を意識する男性に出会いました。世間でよく言う、「頭の中で鐘が鳴る」…そんな気分でした。いつの間にか、その男性と結婚することが夢になっていて、仕事は2番目、そんな自分になっていました。でも25歳の時に、この男性が別の女性と結婚するという形で失恋してしまいました。
当時の私の精神状態は最悪で、自暴自棄な行動で自分を大切にすることが出来ませんでした。周りの人も大切に出来ずに、2人の大切な友人を失くしました。誰かにすがりたい思いでいっぱいで、その苦しさから脱出するには環境を変えるしかないと思い、それまで続けてきた貿易の仕事とは全く無関係な飲食業に転職しました。嫌なこと全て忘れるために、朝から晩遅くまでほとんど休みなく働きました。
幸い素晴らしい仕事仲間とお客さんに囲まれて、少しずつ自分を取り戻していきました。心が回復してくると、再び仕事に生き甲斐を求め始め、勤め先もベンチャー企業でしたので、東京出店の時には必ずスタッフとして働きたい!という、能力や体力に不釣り合いな野心を持つようになりました。ですが、男性でも辛いという職場環境にあって、自分の体力的な限界と否応なく向き合わされ、少しずつ私の中で「このまま続けていていいのか?」という不安が拡がっていきました。
<今、この神様のことだけは手離してはいけない!>
そんなある日、短大時代のアメリカ人の先生と同じ教会で出会った、1人のクリスチャン女性のことを思い出して早速電話をかけて会う約束をしました。私の状態を知った彼女は、はっきりと言いました。「大坪さん、これ以上自分の力で動いても同じ事の繰り返し。今度こそ神様を信じて、神様に聞いて、仕事も選んで行きましょう!それに、大坪さんに必要なことは全て聖書に書いてあります!」と。
その時の私は、過去の失敗の数々を思い、自分を信じることにも限界を感じていました。又、心も体も疲れ果てていたのですが、「今、この神様のことだけは手離してはいけない!」と思い、体に鞭打って日曜日だけでもと、その女性と聖書を読んで祈るようになりました。そしてある日、彼女に促されるままに、イエスキリストを救い主として、私の人生に受け入れる告白をしました。
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」
(ローマ人への手紙 10章10節)
という言葉が聖書にある通り、その日から、私には神様の「もういいから、私について来なさい!」という声と、もう一つの「大丈夫、仕事続けて東京行こうよ」という囁きの、2つの声が聞えるようでした。正直、どうしても野心を捨て切れない自分もいましたが、その先に希望を見出せなくなっていた私は、仕事を離れ、神様に従う道を選びました。
その後、聖書を読めば読むほど、今まで理解出来なかったことが急に理解出来るようになり、「本当に、私に必要なものはここに全て書いてある!」と確信を得られるようになりました。最初に言われ続けた「だれでもわたしについて来たいと思うなら…」の言葉も心に響いて、日増しにその響きは大きくなりました。
<神様の大きな愛に圧倒されて>
ある日、仕事も決まらず部屋でボーッと聖書を開いていると、
ある言葉が私の目に飛びこんできました。
「見よ。わたしはあなたとともにあり、
あなたがどこへ行っても、あなたを守り、
あなたをこの地に連れ戻そう。
わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、
決してあなたを捨てない」
(創世紀 28章15節)
その瞬間涙が溢れて来て止まりませんでした。同時に、自分が愛だと信じてきた自分の思いや行動が、いかに愛からかけ離れ、自己中心であったかを知りました。また、仲違いしてしまった友人に私が発した言葉がはっきりと蘇り、それまでのあらゆる好き勝手な行動で迷惑をかけてきた母や妹のことまで思い起こされました。神様は一つ一つを悔い改めるように導かれました。罪が赦された喜びと、「決して捨てない」と力強く宣言してくれる神様の大きな愛に圧倒されてしまいました。その後、2年のブランクがあるので無理だろう・・と考えていた貿易関係の仕事も決まり、毎週日曜日は教会に通う余裕のある職場を神様は与えてくれました。
<これがずっと捜し求めてきた“自由”です。>
それまで信じられなかった、イエス・キリストという方を信じられたのは、一方的な神様の恵みだと思っています。「聖霊によらなければ、イエスを主であるとは言えない」と聖書に書いてありますが、まさにその通りだと思います。信じる告白をすることで開かれた扉でした。
昔はクリスチャンを聖人のように考えていて、「私はふさわしくないわ」というイメージも持っていました。ですが、聖書の中でイエス様はおっしゃって下さいました。
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」
(マタイの福音書 9章13節)
神様を知らなかった時は、何とか自分の手で幸せになる!という気負った部分がありました。ですが現在は、私のことを生まれる前から計画を持って造ってくださった神様が、私に願っている人生を生きたいと心から思っています。それが、神様が創造された人間本来の自然で自由な姿である気がします。自分の好き放題に生きても、自由を感じられるかといえば、そうでなかったと自分の生き方を振り返って思います。
「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」
(ヨハネの福音書 8章32節)
ずっと捜し求めてきた「自由」です。「私が道であり、真理であり、いのちなのです」と言われたイエス様に期待し、これからも従って行きたいと願っています。
感謝
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